【強奪】
スニーカーの裏で思いっきり蹴飛ばされた。背中が鉄柵に当たってギシギシ嫌な音をたてた。柵の真下は淀んだ流れの大チャオプラヤ川。
“タイではよく外国人が行方不明になる”。とっさに、いつか読んだニュースの記事が頭に浮かんだ。
「こいつらに殺されるかもしれない」そう思った。
映像クリエイターとして起業するためにタイに渡ってから3ヶ月後の2013年2月。
僕は唯一の商売道具だったビデオカメラを、三脚ごと強盗に奪われました。
その頃、僕の持っていた資金は、撮影機材への投資と、法人設立の際に必要な準備金と経費を差し引くと、ほとんど底をついていました。
部屋は家賃二万円くらいの小さなアパート。食事は屋台の120円くらいのタイ飯しか食べられない。唯一、自分の仕事である「映像制作」で得られる収益だけが頼り。
だから、その時カメラを奪われたのは致命的でした。
「そう少しタイの治安について勉強していれば…」「夜の撮影はやめておけばよかった」「これからどうしよう?」
病院のレントゲン室の待合所で、蹴られた脇腹の痛みに顔をしかめながら、そんなことをずっと考えていました。
タイ人の知り合いは、僕を励ます意味で「You Are Lucky Boy」と苦笑い。そんな優しさも、その時の僕にとっては皮肉にしか聞こえなかった。
【選択】
僕は、日本に帰るか、タイに残るかを早急に決めなければなりませんでした。
というのも、二日後には撮影の仕事が入っていたのです。タイで仕事を始めて三ヶ月。その案件は決して小さくない規模のものでした。
新しくカメラを買って撮影をこなし、まだタイで仕事を続けるか、それとも日本行きの片道チケットを買って帰国するか。
その2択の間に挟まれて、かなり悩みました。
タイという発達途中の国で、本当にやっていけるのか?まだ半年も経っていないのに、こんな目に遭うなら、この先もっと大きなトラブルがあるかもしれない…etc
「未開拓のマーケットで好きな仕事を思いっきりやる」「世界中で仕事をしてみたい」という、起業を決めた当初の気持ちを、その時はほとんど忘れかけていました。
ネガティブな想いと一緒に、不思議な実感もありました。カメラを奪っていった中学生くらいの強盗団も、お先真っ暗の自分も、世界中の多くの人は「それぞれのリスクを負って、それぞれのやり方で生きてる」って感覚。世界には、物を貪り、他人から奪いとってでも生活していかなければならない人たちが、確実に存在している。
”生きてるっていう、そもそもの贅沢”。THA BLUE HERB( http://www.tbhr.co.jp/jp/ )のリリックが、ふと頭をよぎりました。
”生きてるっていう、そもそもの贅沢”
危ない目に遭ったことで、経済的にきわどい所に立たされたことで、とにもかくにもまだ生きてる、”ここに存在している”ということに気づきました。
いつの間にか、「帰国」という選択肢はなくなっていました。僕はまさに「有り金」を持ってカメラ屋さんの前に立っていました。
ショーケースの中には、奪われたカメラと同じ、タイ版のSONYのVG20が展示されていました。
なぜか、店員さんは大幅にディスカウントして、新品のそれを譲ってくれました。
こうなってはもう後戻りはできません。法人設立の際に必要な経費を差し引けば、日本行きのチケットを買うことさえできない状態。
でも、後になって、この判断は正しかったことが分かりました。
【運命】
カメラを買った翌日、撮影を終えてすぐに編集に入りました。最終的にデータをDVDにパッケージングするという仕事です。
そして、編集に入ったとたん、日本とタイで「映像信号」が違うことに気づいたのです。
日本では「NTSC」という映像信号が、タイでは「PAL」という映像信号が使われているため、そもそもマーケットで売っているカメラの仕様が違う。
日本のNTSC仕様のデータは、タイで再生するためのDVDに規格が合わないのです。
悪寒がして、鳥肌が立ちました。”もし強盗に遭わずに、そのまま日本仕様のVG20で撮影していたら?”
そもそも納品できなかったのです。タイ仕様のDVDを制作するには、タイで買ったビデオカメラが必要だったことに、その時気づきました。
編集後、パッケージを納品し、徹夜明けの朦朧とした目で引き換え分の現金を数え終え、僕はまた鳥肌がたちました。
その仕事で得られた収益は、新しいVG20の購入金額と、ほとんど同じ額だったのです。
僕は強盗に遭ったおかげで、多くを失い、傷つきましたが、結果的に残ったお金は、プラスマイナス0。
そして手元にはタイで仕事続けるのに必要不可欠なPAL仕様のカメラと、お金では決して買えない「経験」だけが残りました。
あれ以来、何かあるたびに“バランス”という言葉が頭に浮かびます。
一見、不幸にしか見えないあらゆる状況は、時とともに変化する。
それが自分にもたらすものも変わる。意味自体も、まったく逆のものに移り変わることがある。左右に傾く天秤みたいに。
人は、どちらかの皿が傾くたびに悲しみ、どちらかの皿が傾くたびに喜んだりする生き物です。
でも本当は、ひとつの天秤が目の前にあるだけ。ポジティブなことは、ネガティブなものが反対側にいて引っ張るからこそ、ポジティブでいられる。
その逆もしかり。ネガティブなことは、ポジティブに繋がっていて、分け隔てることができない。呼び名が違うだけの、同じもの。
タイの神様(?)はそんなことを伝えたかったのかもしれない。
【裁判】
つい3ヶ月前、強盗事件からちょうど1年後、タイ警察の捜査によって犯人の一人が捕まりました。
人生で初めて、僕は裁判所の証言台に立っていました。被告席には僕のカメラを奪っていった中学生くらいの男の子。
彼は僕と目が合うと、鋭く睨んできました。すごい。肝の据わり方が…。ところが、裁判官に、自分のやったことをあらためて陳述され、
「これらを認めますか?」と言われると、うっすらと涙を浮かべながら小さく「はい」と答えました。
その姿には、未熟で気の強い子供が心から謝った時に感じられる、一種の可愛げのようなものがありました。
張りつめていた法廷の空気も柔らかくなって、裁判官のおばさんでさえ、うっすら微笑んでいました。
実は、裁判が始まり前、男の子の弁護人から「彼の家は貧しくて慰謝料を払える能力がありません。上訴することはできますが、それにはそれで費用が必要です。どうしますか?」
と言われ、どうしますかって…どうしようもないので、「じゃあ、男の子に謝ってもらって、それで手打ちね」ということになっていたのです。
具体的な刑罰もあるのでしょうが、被害者に対する金銭的補償は皆無でした。
だから、男の子が罪を認めた後、僕の前にひざまずいて手を合わせ、頭を下げる、いわゆる「タイ式土下座」で、裁判はあっさり終了。
日本の感覚からするとこの裁量は割り切れないかもしれませんが、タイの簡易裁判はこんな感じ。でも不思議と、僕の中に残っていたしこりが、かなり溶けたことは確かです。
そして、裁判所の書類に「天秤」の紋章がプリントされているのに気づいた時、それからしばらく目を離すことができませんでした。
【エピローグ】
おかげさまで、この強盗事件から一年以上が経ち、いくつものお仕事を乗り越え、たくさんの人に助けられ、僕はなんとか起業することができました。
僕らのちょっと変わった映像制作会社、RAWLENS FILM PRODUCTION(THAILAND)はタイに根を張って、成長中です。
タイの地上派CMや上場企業さんとの取引もこなせるようになってきました。……なんとかかんとか。
http://rawlens.asia/
永遠に続く曲がないように、「法人」という存在もいつか必ず消える運命ですが、そこで得られたこと、”言葉にならない何か”は残る、伝わると思っています。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
Main Photo taken by:Swaminathan
Night's Photo taken by:Mike Behnken