帰ります!
3月上旬帰国予定で奨学金の申請をしていましたが、次が決まったことやらやら含め1月末に東京に帰ります。寒いのは降りた瞬間嫌になりそうですが、私もやっと周りの一期生に追いつけます。笑 と、いう事務連絡。(変更届早く通してくださいお願いします。)
今回のテーマ
今回のテーマは『Future can't be predicted』。私の大学生活4年間の過程を例に今オーストラリアで感じていることを書くことにします。
逃げた、大学一年生の春休み(2013年3月)~一回目のブリスベン~
このブログの最初の方にも書いてありますが、私が初めてオーストラリアのブリスベンに来たのは大学一年生の春休み。当時体育会ヨット部に所属していましたが、そこの縦社会と男女差別に耐えられず(伝統部活のため低学年に発言資格はほぼなし、女なんて耳も傾けない、上の発言が全て正しい)、春休みの長期練習が始まるギリギリに「先輩が嫌いなので海外行ってきます」といって日本を出た。もともと英語は高校の時から再試常連者。大学の志望校を下げた分、大学内での英語のクラスはトップに入ってやるとプライドから思ったがそれも無理、なんで英語が存在するんだと思うほどだったが父親が昔海外転勤が多く、その経験から私も海外を見てみるべきだと言っていたのを思い出し、「1か月なら」と(とにかく練習にいきたくなかったんだけど)留学を決意。
Yes/Noしか話せず、誰かの会話に返すには紙とペンと時間が必要だった。それでも、1か月、ヨット部の先輩たちにぎゃふんと言わせてやるからと思い日本人との接触をとにかく避けて英語環境を作ることに徹底した。その結果、まあ生きれるくらいには英語に慣れた(今と比べたらまた別の話だけど)。
個人として私が認めらること、ブリスベンの空気、景色が気に入って(相変わらず英語は嫌いだけど)また来たいなと思った。全てが初めての19歳の春。
お金下さい、大学二年生の夏休み(2013年8月)~二回目のブリスベン~
一回目のブリスベンから帰国後、こんな場所にいたら私の人生もったいないと思い部活を退会。完全にオーストラリアに惚れていたのでなんとか戻れる方法を考えて所属大学の交換留学を意識し始めた。ただ、協定校の中にブリスベンの大学は無く、両親との約束で「4年で卒業する」というのがあったので(結果無理だった)休学留学は選択肢になく、オーストラリアならいいかということでシドニーの大学を目指すことにした。
留学のためにIELTSの勉強を始めた二年生の前期、隣の化学コースの教授とちょっとした繋がりがありその教授の授業を生命科学コースから忍び込んで取っていた(化学コースの人達用の一般生物だったので正直単位のためにとっていた)。ある日その授業が終わった後、その教授とキャンパス内の移動が同じになり、私がオーストラリアに興味があることなどを話しながら歩いた、その時間約5分。教授が「自主国際支援」という理工学部で行っている海外挑戦への資金支援があることを教えてくれ、「君なら出来るんじゃないか、チャレンジしてみなよ」とチャンスを提示してくれた。私はさっそく生命科学コースの教授に連絡を取り、「自主国際支援」の詳細を聞きにいった。
「自主国際支援」は首都大学が年ごとに学部を選び、その指定された学部に所属している学生が海外で研究をしたりセミナーに参加するのを支援してくれるもので、その年はちょうど理工学部が選ばれている年だった。”自主”というだけあってどこの国・どこの大学何でもよく、審査に必要なのは「自分がそこで自主的に何をして何を得るのか」ということ。普通は研究室の教授と繋がりがある大学やセミナーに行くものだったが、私は何が何でもブリスベンに行きたかったためブリスベンにある大学の教授や環境系の学生団体など端から端までメールを送った。・・・とはいえいきなり日本の学生が来るなんてもってのほか、英語はたかが知れたレベル、研究内容もない、返事はほとんどなかった。
書類提出まで時間がない!そんな時、UQ(University of Queensland)の環境学を専攻している学生たちの集まり(いわゆるサークル)から返事が来て、手を組んでくれることになった。”自主的な活動”をクリアするためにオーストラリアと比べた日本の環境、リクエストのあった東日本大震災の影響による生態系の変化などをプレゼンする機会を作り、逆にオーストラリアの生態系を学ぶために一緒にフィールドワークに行くことにもなった。そして、UQと日本の動物保護団体が一緒に行っている海洋生物の研修にも参加することになり、一通りのプランが出来た。
書類審査は問題なし。面談も乗り切ったが、支援額が平均10~20万円(宿泊費・往復交通費など)である中、私の提示した額は40万。。。。全額免除は不公平なので無理かもと言われていたが何故か結局全て支援してもらえることになり実質タダで二回目のブリスベンへ。
海洋生物の研修ではオーストラリアの生物の多様性に感動し、自分が海が好きであることをもっと学びたいと思っていることを実感させてくれた。新しいことばかりで、本当に良い経験だった。一方のプレゼンでは、用意は間に合ったものの質問が聞き取れず(用意した英語以上のことは出来なかった)、終わった後に悔しさで泣いたのを覚えている。最後まで協力してくれた人たちに感謝でいっぱいの一方、何も残せなかったと謝りたい気持ちもあった。IELTSがとれるのか不安になる19歳の夏。
大学二年生の冬、IELTSの取得 (2014年1月)
二回目の留学から帰国後、IELTSに専念。そして、4年で卒業するためにフル単位で授業を取った。また、理系に必須の卒業研究の単位として私のコースで行われている「自主研究」を選択した(1・2年生がとることが出来、卒業研究とはくらべものにならないが1年生からずっとつづけていれば単位として同等のものが取得できる)。忙しかった。
そして最後のIELTS、私が目指したシドニーの大学はOverall 6.5, Each section 6.0。私の結果はOverall 6.5, Listening 7.0, Reading 6.5, Speaking 6.5...Writing 5.5。足りなかった。とはいえ、このスコアでパースにある大学の語学学校付きのコースに出願することは可能だった。不運なことに、シドニーの大学での語学学校付きのコースわ私の出願年に廃止されたため、もう何もできなかった。
大学三年生の春、留学への出願 (2014年4月)
4年で卒業・・・そのためには交換留学しかない。パースしか出願できない・・・それでもオーストラリアだからと思い、心は決まっていた。嫌いな英語を一年間勉強したことを無駄にしたくなかった。
そんな三年生の春、「トビタテ!留学JAPAN」という留学奨学金を偶然ネットで見つけた。締め切り一週間前。公式の説明会が行われたその日に見つけた。新しい奨学金で情報はどこにもない、募集要項を見た感じはクリアできそう、しかし時間がない。さらに検索したところ、ある留学エージェンシーが提供している一年間の私費留学をトビタテ!で出願できるという宣伝、かつ奨学金説明会を行うことが分かった。これはチャンスなんじゃないかと思い翌日のバイトを変わってもらいいざ東京へ。結果、私費留学ではブリスベンの大学を選べる事もわかり、私がトビタテ!に出願資格があることも分かった。
もしこの奨学金に受かればブリスベンに行ける。ブリスベンで勉強できる。出願しないわけがなかった。残り一週間、色々な人を巻き込んで迷惑をかけて出願書類を作成した。具体的な留学プラン、期待する成果・・・正直交換留学にそんなことは求められていなかったのでぼんやりとしたものを文章にするのは大変だった(国語もひどいし)。ただ、私費留学では4年で卒業できない、親との約束が守れない。なんとかなるように所属大学とも何度も交渉したが私一人のためにそんな新しい学則は作れず、それだけが心残りだった。とはいえ倍率も低くはなかったので受かったら親と話そうと思っていた。
6月、一次審査である書類審査の合格通知が来た。その二週間後、二次審査の面接とグループディスカッション。時は一瞬で流れて、また合格通知待ち。指定された日にちに合格通知は届かず... 交換留学も併願として出願しており、その最終審査が迫っていた。交換留学はスコアの順位的にほぼ100%合格できる、ただし辞退は不可能。合格することにかけるか、安全を選んで交換留学の審査を受けるか選択を迫られた。・・・最終審査当日、私の面接は午後3時。合格通知は来ない。ため息も深まるところ、正午に国際センターから電話があり、至急来て欲しいといわれ、授業が終わって直行した。
そこで言われた「奨学金審査の合格」。正式な書類はまだだったが、国際センターの人たちはもちろん交換留学の併願のことも知っていたため、口頭でまず伝えてくれた。そして辞退するかどうかとなり、私は迷わす交換留学を辞退した。最終審査の2時間前だった。
さらに幸運なことに、参加を決めた私費留学の奨学金生にもなることが出来た。それでも自費が発生するお高い留学ではあるが、それ以上の目標・価値を感じていたのでブリスベンを捨てるわけにはいかなかった。三回目の留学が決定した20の夏。
世界が動いた、三年生の夏~冬 (2014年7月)
トビタテ!の奨学金には壮行会や事前研修などいろいろなものがあり正直苦労もあったが、想像していた以上に同じ奨学金生、同期との関わりも濃く、仲間が急に増えた。皆とっても魅力的で面白くて自分が選ばれた意味が分からないこともあった。全国から集まった大学生が同じ留学というものを通して結ばれ、テーマに縛りもないため多様性は図りきれず新しい世界だった。同期の中では最後の最後まで出発しない組だったため、同期が先に海外で頑張っているのを見ながら念願の三回目の留学を描いた。期待であふれた20の夏~冬。
そして私は今 (2015年3月~) ~三回目のブリスベン~
留学の準備期間は一瞬ですぎ、21になってすぐに私は三回目のブリスベンに到着した。なんとも言えない気持ちで飛行機を降りたのを覚えている。初めて来たときの私には想像もできない未来が現実として動き出した。
海洋生物学へのきっかけをくれたその場所で、今度は大学生として学ぶことが出来る。結果、海洋生物学の専攻をするためにブリスベン途中で出て、ゴールドコーストに引っ越したが現実にすることが出来た。英語の壁は大きくて単位が取れそうにないと最初から落ち込んでいたが、素敵な教授に恵まれ来週の最後のテストが大きく失敗しない限りはなんとか単位が取れそうだ(というわけで勉強しないといけないけどなぜかこれを書いている)。
そして、この一年間留学に含まれる2か月間のインターンシップ(本当は3か月だが一番最初に書いた通り期間変更をした)。先日その受け入れ先が決まり、それが驚いたことにUQだった(二年生の夏にお世話になったところ)。正確にはCSIROという研究団体の支部がその大学内にある。さらに驚いたことにベースとして与えられる研究内容は二年生の夏に参加した海洋実習で触れたもの。それを研究者の卵として出来るわけだ(まだ始まってないから詳しくはわかってないけど!)。
そんなこんなで、初めてのブリスベンから三年後、私は悔しい思いをしたこの場所に白衣と共に戻ってきた。戻ることが出来た。想像もしていなかった未来がある。何もすごいとは思わないし、本当にたくさんの人に支えてもらった私は一番の幸せ者だ。期待してもらえることが本当に幸せだ。だから私は残り最後の約二か月、その期待を倍以上にして返すためにも目標を達成し続けなければいけない。そしてそれは最高に楽しい。
Future can't be predicted
未来を予測するのはとても楽しいけれど、どうなるかなんて結局誰にも分らない。でも、予測は出来なくても過去と違って未来は変えることが出来る。そして過去の自分が想像もできなかった未来を、「今」として歩むことになったときなんともいえない、言葉にもならないような感慨深さ、感動そして成長を感じることが出来る。そんな場所に今の私は立っている。
文章にしたってかなり省略しったってこんなに長いわけで、しかも他人のこの過程に誰が興味があるんだってところで話したことはなかったけれど、これを見てる人は最後まで脱離せずに読んでくれてありがとうございました。笑
私の大学生活を支えてくれた、全ての人に感謝を込めて。
2015/11/05
さらに幸運なことに、参加を決めた私費留学の奨学金生にもなることが出来た。それでも自費が発生するお高い留学ではあるが、それ以上の目標・価値を感じていたのでブリスベンを捨てるわけにはいかなかった。三回目の留学が決定した20の夏。
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by ** 2015-11-06 既読**********************************************************************************************************************************************************************
by ******** 2015-11-06