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アメリカ留学で学んだ3つのこと

帰国して2週間が経ちました。
1か月前はアメリカにいたなんて信じられないほど日本にすっかり馴染んで故郷の良さを実感しています。
  
さて、重複する部分もありますが、アメリカ留学で学んだことを振り返ってみました。
書き進めるほどに書きたいこと、伝えたいことが溢れてきます。
その片鱗だけでもお伝えできればと思います。

  

①「あたりまえ」はない

外国に出て、自分がいかに「日本人」であるかを実感しました。
自分を形成する考え方や行動、習慣などがいかに日本という文脈の下で成ってきたのか、
考えさせられる場面が多くありました。

日本で暮らしていると、「こうあってあたりまえ」という常識が数多くあります。
日本にいる人たちはほとんどが日本人であり、日本の世界観の下で人生を過ごしてきたわけで、そのような「あたりまえ」は共有しなくとも自然に伝わります。
暗黙の了解が多々あり、それを理解できなくては空気が読めない無礼者になってしまいます。
でも、外国ではそれらの「あたりまえ」は通じません。
前提があまりに違うのです。

おそらく、世界的に見ると日本は異質な国です。
ほとんどの人が日本で生まれ育ち、日本語のネイティブで、日本人らしい顔つきをして、似たような体格をしています。
日本にいて、自分が日本人であることを自覚する機会など、滅多にないと思います。

自分がいかに日本人であるのか、いかにそれが無意識のうちに浸透していたのか。
「無意識である」という意識の必要性を痛感しました。
「無知の知」という言葉がありますが、まさにその通りで、無意識のうちに自分の考えは何らかの考えに影響を受けているのだということ、日本の常識を基準に話し、行動しているのだということを自覚しなくてはなりません。

アメリカのことを学ぶ以上に自分のこと、自国のことについて考える機会になり、自分とはなにか、自分の思想はどこからきているのか考える機会にもなりました。
  

②個人主義と集団主義

「アメリカは個人主義、日本は集団主義」とよく言いますが、この言葉を実感する場面が多々ありました。
ただ、日本で思っていたのとはこれらの概念の捉え方が変わりました。

「個人主義」と聞くと、自分が大事、他人は二の次、という印象を強く受けるかと思います。
でも、そうではありませんでした。
私の感じた個人主義は、一人一人を個として対等に大切にするということでした。
その根底にはおそらくキリスト教の「隣人愛」の考え方があると思います。

アメリカの人はとてもフレンドリーで、他人思いでした。
敬語などなく、誰もが対等です。
子どもが大人に話しかけるさまも、大人同士で話すさまも同じです。
次の人にドアを開けるのは当たり前で、男女関係なくそうしてくれます。
知らない人でも微笑みかけてくれます。

これらは他人を大切に思っていなければ、対等だと思っていなければできないことだと思います。

一方で、「集団主義」への考え方も変わりました。

「集団主義」は集団での行動を重んじる、と単にそれだけの印象を持っていました。
でも実はもっと深い意味を抱合しているのではないかと思いました。

ある人に言われて納得したのですが、日本は「集団主義」以前に「利己主義」が強いのです。
人にどう見られているか気になる、周りより少し上にいたい、という考えが行動に先立っているように感じます。
和を尊ぶという文化は素晴らしいと思うのですが、その根底にはそうしないと周りの目が、という自分の評価に帰する考えがあるように感じます。
そして、この考え方が行動や選択の幅を狭め、自信を喪失させてしまっているのではないかと思うのです。

アメリカで出会った多くの日本人の方々は、口々に日本の集団主義、うわさ好き、近所付き合いといった他人に干渉し合う文化が苦手だとおっしゃっていました。
そのようなもやもやを持って、アメリカ移住という道を選び、住みよい場所を見つけられた人は良い生き方をしているなと思います。
でも同時に、違和感を持ちつつも行き場のない人もいます。

どのような社会文化が合うかは人それぞれですが、各々に合った生き方、場所を選ぶことが当然の権利としてできれば、と思いました。

  

③過去と現在は繋がっている

アメリカで出身を答えると、自分のルーツの話から始める人が少なからずいます。
出身を聞いたのに歴史の話になることもしばしばです。
また、州や地域によって様子が大きく異なります。

アメリカに来て、こんな光景が頭に浮かぶことが幾度もありました。

遠く遠く遥か彼方からいくつもの道が延びていて、それらが接し、交わり、離れていく。そして、自分はそのうちの一つの道の一点に立っている。

それぞれの道はそれぞれの人生で、その道の一点に立つ存在が自分で、
他人と接し、時には深く関わり合いながらまた別の方へ歩んでいく。

アメリカではきっと無数の方向から道が延びていて、それぞれの道はとてもとても長くて、複雑なんだろうな、と。

無数の方向から延びる道が接し、交わって多くの人に出会えたことそれ自体が奇跡的で素晴らしいことなのですが、私はそれ以上にこれまで歩んできた道の方に思いを馳せました。

異国からやってきた移民である彼らにとって、歴史は教科書上の出来事ではなく生の記録であって、自分を語るには欠かせないものなのだろうと思います。
長い長い歴史があって自分があり、それらの出来事があったから自分はここにいる、という意識が強いのだと思います。

私はそんなルーツを語ることはできないけれど、私を形作ってきたものも過去にあって、過去と現在と未来で私はできています。

そう思うとこれまでのどんな経験や出会いも無駄ではなく、自分を成長させてくれたものなのだと感じます。
これからの経験や出会いも然りで、自分を成長させる何等かの糧になっているわけであり、常に感謝の気持ちを忘れずにいたいと思いました。

  

デンマークとスウェーデンで学んだことについては、また後日アップします。

この記事を書いた人

Kayo Matsunaga
現在地:日本
福岡県出身 九州大学 教育学部 社会教育、生涯教育、大人の学び直し、あそび、公園 パン屋めぐり、散歩 トビタテ!留学JAPAN 3期生 シアトル、コミュニティカレッジ スウェーデン、デンマーク、フォルケホイスコーレ

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