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適当 spend too much time on it

職場の机で悶々としていた時
ふとAustraliaを訪れる前の英語や日本語など語学に関する私の認識はどんなんだったのか
と振り返ってみた

英語とは語学であり、日本の教育制度上の試験科目でもある。
また、国語は日本語を学ぶため、日本の教育制度で定めれれた科目である。

そのようなことをふと考えた時
この2つの違いはなんなんだろうかと思った。

はっきりいって
どっちもやっている内容として同じような科目である。

単語もしくは漢字の書き取り
難しい使い方や言い回しを使って覚える(四字熟語や構文)
長文や短文を読む
書かれた内容について述べる。などなど

これを読んでいるみなさまも
経験・体験したものは似たような感じでなかったでしょうか。

ただ、
国語(日本語)ならば、授業中だけなく日常も
日本語を話し、聞くを延々と続けます。
日本語漬けな日常を何年か経過すれば、
自然と日本語をざっくりと話せ
「日常日本会話」に困らないことでしょう。

これが、英語を日本で学ぶ場合は異なります。

まず授業は英語ばかりではなく、解説は日本語です。
教員や学生間だけでなく
さらに他の日常生活でも日本語ばかりです。

国語を学ぶと同様の環境でなく
ちょっとした場所で、
英語を用いて相手へ自分の気持を表現する機会は、
なかなか簡単なことではないかと思います。
(数年前より英語を話す機会は増えてきているだろうと思いますが・・・・)

日本の教育制度では
英語をコミュニケーションのツール・言語であると捉え実践するには
適した教育環境が整っていないのかもしれません。

英語で物事を考えて話すというより
試験のためのテクニック
それこそ理科・数学と同じような位置、つまり1つの科目にならざる得ないのかなと思います。

他者とコミュニケーション(会話するのでなく)をとるという点で
とても努力がいるような英語教育環境のようです。

Australiaにいた際に
他の国、ブラジルなど南米や韓国・台湾、欧州各国と色々な方々と出会い
感じたことがあります。

彼らは決して受験のツールとして英語を学んでいるのではないことに・・・・

彼らの多くは、文法や単語などが日本人より滅茶苦茶なことが多いです。
実際、私は日本の形式のような筆記テストでは良い点を取りますので、
語学学校の教員にとって、みかけ上の優等生でした。

しかし、話すだでなく自由に文章表現するなどコミュニケーションをするという点で
明らかに彼らより劣っていたと思います。

言語を話すためには、文法や構文そして
丁寧に話すことやフランクにカジュアルに話すことがあるように
条件に合った適当な表現方法を学ぶことは大切でしょう。

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適当=適して当てはめる
これは中々難しいことだと私はつくづく感じ、経験しています。
「適当にやるんで大丈夫です」と仰る方々によく出会いますが、
私は、結構な自信とスキルを持った方なんだなと畏敬の念を感じています。
私もあれくらい啖呵を切れる人物になれたらいいなと感じる今日このごろです。

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話題がそれましたので本題に戻ります。
つまり、日本で学ぶのはそれなりの努力が必要なんだなと感じました。
日本で同じくらいの期間と費用をかけるのと
英語圏で学ぶのとでは、
”何がちゃうんやろうか、どんなもんなんやろうか”
と感じました。

結局のところ、現地にいることで
コミュニケーションとは何なのか
どれくらいの勉強量が必要なのかという
現実を知ることができました。

その現実を学ぶ中で
私は日本と異なる教育環境に感銘を受けました。
その1つが図書館です。

Melbourne library(1)

昨今の日本の図書館は、自習を別室でさせるもしくはどこも許可しない傾向があります。
そのため学生を含め、浪人生や社会人は特に
喫茶やファストフードなどをさまよい自宅以外で勉強できる場所を探すことになります。
何十時間も同じ場所で勉強できる方は、一握りなのではないでしょうか。
私はできない人間です。

Melbourne library(2)

Australiaの図書館は
公立や大学併設関係なく、特別な場所でなく
本を楽しむ方と同様に門戸を開いていることが多く
さらにネットなどWi-Fi環境を整えられてたりします。

日本に比べてネット環境は芳しくない国ですが
ネットを利用する点で公共性は高く、
長期滞在する場合に大いに助けられました。

上記の写真にあるMelbourneの図書館は有名な施設の1つです。
シェークスピアの資料もありました。
もう一つ、近郊に学生間では有名な最先端の図書館があります。
いくつかのサバーブごとにも、
この図書館のようなコミュニティスペースがありました。

surry hills library

sydneyでも有名なイタリア街にも写真のような場所がありました。
また、日本に比べて明るくそして適度に陰影がある公園も多く
ありますので、昼は公園で読み物や音を楽しみながらリフレッシュし
また勉強できる環境があるのはとても幸せだったなと思います。

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また、
常に周りも英語の環境にいることで、自然と耳から慣れることがありました。
英語独特のリズムや発音を知ることで・・・
乳幼児が上手く家族と会話できたときのような感覚でしょう。

どんどんと聞こえる言葉増え
コミュニケーションする楽しみが増えました。
私の語学力は中々の底辺です。これは、「現実」なのです。

しかし徐々に先程述べたような
南米や欧州各国・アジアと意識することなく
人として関わることに慣れて来た時、
彼らの異文化を改めて知り、驚嘆することもありました。
※ただ関わる中で結局考えたりする部分は一緒なんだなと共感することもありました

生活の中が春のように花が咲いていく感じでした。
(私がそう感じた時は、ちなみに現地で真夏になります・・・)

Shakespeare

”適当”に英語を勉強することに関して、答えはないのかもしれません。
だからこそ、私が学んだことも一つの”適当”なのかなと思います。

この記事を書いた人

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Kenichi Okumura
現在地:日本
京都のとある大学で看護を学び 救急看護師として日々従事していた。 その後は、世界観を変えるためにAustraliaに旅立ち 現在、日本から再度自分の夢である世界へ目を向け 視野を広げて活動できるように交流をつづける。 「何にもとらわれないひらかれた場所で空をみること」を目指して。

Kenichi Okumuraさんの海外ストーリー