Global Project Workの一環で2014年3月に2週間マレーシアのマラヤ大学に在籍し授業を受講しながら、授業科目である産業と多民族社会に関連してクアラルンプールとジョホール内の施設を見学した。
私の班は宗教教育をテーマに設定し、千葉大学での事前教育でプレゼンテーションを作り、議論の論点を用意してマラヤ大学での講義に臨んだ。発表後の現地の学生との議論では、宗教について文献からは得られなかった知見を得た。彼ら、特にマレー系の学生にとって宗教がいかに大切であり生活の一部であるのかがよく分かった。人生で最も大切なものは神である、と迷わず言い切る学生も多かった。日本では特に宗教について知識も関心も持っていないことが一般的であるが、宗教と生きる人々の視点から、無宗教国と言われる日本を見つめることで、日本を改めて相対化する良い機会になった。マレーシアだけでなく実は日本でも宗教が政治や教育、歴史、人々の価値観と深い結び付きがあることに気付いた。マレーシアの学生との議論の中で、相手の意見や価値観をまずは知り、尊重する謙虚な姿勢を感じた。実際に現地の人々との交流を通して相手を知ることで自分の固定観念を更新していくことの大切さを知った。
大学内でバスケットボールをするムスリムの女性やバイクに乗る年輩のムスリムの女性を多く見かけた。また、ジョホールでのホームステイでは受け入れ家族がムスリムであったため、家の中でスカーフを外したり白い衣装で祈るムスリム女性の姿を見る機会があった。それらを新鮮に思うと同時に、実はムスリムの女性は受身的で従順であるという固定観念が自分の中にあったことに気付かされた。
ファッションと自由の関係についての議論の中で忘れられない言葉があった。スカーフがあるからムスリムの女性は自由になれる、という言葉だ。それまで私はスカーフは服装の自由を制限しているのではないかと密かに思いつつ、直接それを本人達に言うことを躊躇していた。スカーフはイスラム教において男女の不平等を象徴しているように感じていた。しかし、ムスリムの学生はスカーフが体を守るから自由に外で活動できるのだという話をしてくれた。私が信じている平等の定義や価値観を元に彼らをジャッジしていたことに罪悪感を覚えた。
ムスリムの人々についての新しい発見を書いてきたが、私達と彼らには当然共通の文化や生活がある。クアラルンプールパフォーミングアートセンターで日本のパフォーマンス団体Nibrollと現地のダンサーとの合同作品see/sawを見る機会があった。舞台にプロジェクターで映像と音が3Dに流される中でダンサー達が踊るというよりも走り、ぶつかり、倒れ、足掻き、這いつくばり、苛立ち、叫ぶ、不恰好な動作を繰り返す。舞台の中心にも白い遊具のシーソーが置いてあったが、タイトルのsee/sawの発音はシーソーに似ている。見る/見た、は二項対立を表しているのだと私は解釈した。シーソーの端と端が象徴する、飛び上がる者/沈む者、上/下、過去/現在、生/死、日本/マレーシア、叫び/静寂、津波の犠牲者/生存者…これら多くの二項対立を強調しながらその境界線を曖昧にしていた。パフォーマンス後に観客とダンサーの間で質疑応答の時間があった。マレーシア出身のダンサーの1人が、誰にでも家族や恋人、友人のようなかけがいのない人がいて、不慮の災害や事故、病気で人をいきなり失う絶望に国は関係ないのだ、とさっぱりと語ったことが響いた。マレーシアと日本でコラボレーションする理由がそこにあると感じた。ランダムな物が壊れ流れ浮遊する映像を背景にダンサー達全員が体中で叫び続けるシーンに私も涙が流れ呼吸が苦しくなった。異文化を持つ人々とは分かり合えないことが前提にある。直接の交流を通してお互いの共通点を模索することからコミュニケーションは始まるのではないだろうか。
私は日本でイスラム教について学んだ気になり、どの宗教にも偏見は持っていないつもりで、日本人の宗教への偏見を問題提起するプレゼンテーションを作った。しかし、本当はどこかでムスリムの人々を自分とは異質なものとして見ていたのではないだろうか。宗教は人を構成する多くの文化の側面の一つだ。コミュニケーションの中で、共通の文化や生活が見え、親近感や安心感を覚える。共通の言語で対話ができる。同じ時間を共に過ごす。同じ話題で議論をする。文化が異なっていても、そこから誤解が生じても、最初は誤ったステレオタイプを抱いていても、私達は対話やアートを媒介に同じ時代の違う文化圏に生活する人々のあり方を想像することができると感じた。
宗教は人を、国を1つに強く結び付け、それが国力になると話す学生がいた。秩序と国力は直接結び付くのだろうか。クアラルンプールの街を歩くと、どこでも国旗が掲げてあるのを見かけた。民族や宗教が多様でそれぞれのグループが分裂しつつも、国は一つという意味で統一され共存している印象を受けた。ファッションの班の学生も最終プレゼンテーションの中で話していたが、多様な色が混在する中で不思議とそれがどこかで調和しているということは私も感じた。
マレーシアに滞在中に夏からフィンランドで1年間の交換留学の選考に通った旨のメールを受け取った。知識がないことよりも疑問が持てないことの方が大きな問題である。違和感をもとに学んだり深く考察していく姿勢をフィンランドでも大切にしていきたいと思う。