オックスフォード大学の生涯教育プログラムは、様々なコースを用意している。創作執筆だけでもいくつかあり、僕は小説執筆のコースを選んだ。3ヶ月のコースの、今日は初回。集まった学生は15名余。
本当は勉強する気力すらなかった。しかし、多くの友達がアウトプットの必要性について僕を説得した。話せ。書け。もっとだ。誰に対してでもいい。今のお前にはそれが必要だ。これまでもそうして切り抜けてきたけど、本気でやろうと考え始めると、あとは方法論の話になる。全く手探りよりは、指南がある方がいい。
授業の最初は自己紹介だった。しかし、ペアで質問を投げ合って、あとで全員に相手の人生譚を紹介するやり方だ。たった5分間の会話で僕のペアだったアマンダという名の年配の女性は、僕の生き方を、いや、生き方から感じ取ってきたものを、概ね理解した。
最後の質問。
「それでもなお、あなたは人間性っていうのを信じられているの?」
難しい質問だ。
でも思ったより、回答は早く出た。
「はい、信じてますよ」
まだ、そんなことが言えるのか、僕は。たいしたもんだ。
教授は言う。
「人間は物語るようにデザインされています」
人間は殺し合うようにデザインされている、とでも言うかのように。そうか、何かを経験し、それを語ることは日常的に行われる。それが真実であれ嘘であれ。「今日学校で何があった?」と両親が聞き、幼い子どもでも「えっとね、何々君がね・・・」と話すのと同じ。つまり何が言いたいかというと、物語ることは、人間にとって特別な所作ではない。
この授業は、伝えたいことをフィクションという名の嘘物語に仕立て上げる方法論を学ぶ場だ。 最初の宿題は500語の自分で書いた物語を、主人公の性別、時代背景、舞台となっている場所、結末、のどれかを変化させて書き直す、というもの。頭の中をぐにゃぐにゃにさせて、役に立つ何かを学び取ろう。それが立ち直る方法かもしれないから。