【日本を出るまでの経緯】
「私はワーキングホリデービザでオーストラリアに行く。
向こうで永住権を取って、日本には二度と帰らない。」
「博士課程を棒に振るというのか。現実的になれ…」
渡豪前の日本で、この会話を何人と何度したことか。
この会話を飽きるほど繰り返した四か月後、
私はオーストラリアのシドニーにいました。
海外に行ったのは、家族旅行でのグアム三泊四日と、
大学時代に卒業旅行で行った
フランスとイタリアとギリシャの七泊九日だけ。
長期滞在は、10年ほど前に行った
カナダでの二週間のホームステイのみ。
英会話は多少できるものの、
常に片手に電子辞書が必要な状態。
現地で生計を立てられるような手に職も、特技もなし。
そんな状態でした。
さらに、当時の私は体調面に問題がありました。
大学院で受けたパワーハラスメントによって
4年間にも及ぶ自律神経失調症を患っており、
睡眠障害と食欲不振に苦しんでいたのです。
こんな体で、外国に滞在するなんて無茶かもしれない…
と思いました。
それでも、自分の未来の子供のために
何としてでも放射能から逃れたかったのです。
原発事故から無頓着に暮らしていた半年後の自分の体には、、
今まで出たことのない不思議な症状の数々が出ました。
内部被爆かもしれない…と恐怖に震えました。
でも、それを証明する方法などありません。
科学的に安全か危険か分からないものは、
危険だとみなして対処することが
リスクヘッジだと思い、日本を出ることにしました。
かといって、自分のような人間が
知り合いすらいない国に
下見なしで移住するのが無謀なのは明らかでした。
【メンターとの出会い、そして渡豪の決意】
何か方法はないかとネットで調べていたら、
オーストラリア在住の個人エージェントのAplacを見つけました。
その個人エージェントの名前は、田村さん。
日本での士業という輝かしいキャリアを捨てて
好景気前で賃金が安かったオーストラリアに
10年以上前に移住した異色の人物でした。
そのエージェントの売りは、渡豪後一週間以内に
オーストラリア生活で必要な知識を
集中的に叩き込んでくれる「一括パック」でした。
しかも、田村さんが紹介する学校に12週間以上通えば、
一括パックは無料になります。
現地の文化やマナー、交通機関の使い方、
住む場所の探し方など。
早速田村さんにメールを送り、お世話になることにしました。
これで現地で当初は生き抜ける見込みは立ったので、
後は日本での諸手続きを済ませるのみとなりました。
まず、契約の一週間ほど後に
オーストラリアのワーキングホリデービザを
オンラインで取得。
年始で移民局が暇だったのか、三日でビザが下りました。
大学院は三月末で退学するための手続きを済ませました。
次に、役所関係の手続き。
私の場合は市役所へ行って転出届を出し、
国民健康保険脱退の手続きをするのみでした。
残るは、周囲の説得。
最初は分かってもらおうとしましたが、
「放射能を避けるため海外に移住する」
と話しても、全員がポカンとするばかり。
中には、鼻で笑う人達も。
新聞とテレビでは安全だと言っていますので。
ですので、周囲に分かってもらおうとすることは早々に諦め、
反対する周囲を振り切って出国しました。
結婚を前提に付き合っていた恋人とも、
放射能に対する意見の違いからお別れをしました。
かなりの人と縁が切れてしまいましたが、
後悔はしていません。
家族と親友だけは、理解はしてくれないものの、
私の決断を尊重してくれました。
最後の問題は、渡航資金。
私は大学院生で学生だったため、
本などを買っていて貯金がありませんでした。
そこで、派遣会社に登録し、
時給のいい携帯電話の販売の仕事を三か月間集中的にやり、
50万円貯めました。
無我夢中で渡航準備をしているうちに
積年の体調不良がいつの間にか消えてなくなりました。
心因性のものだったので、
生きるか死ぬかというレベルで達成したい目標ができて
それまでのストレスを忘れるほど
全力投球したからかもしれません。
全ての不安要素が消えたとはいえ、
それでもやはり出国日が近づいてくると緊張してきました。
出発の一か月前から再び食欲が低下し、
渡豪のことを考えると
体の震えが止まらなくなることもありました。
そして迎えた出発当日。
両親に車で送ってもらい空港へ。
両親に別れの挨拶をして早めにチェックインをし、
空港の中へ入りました。
私のフライトは夜8時のものだったので
空港内には人もまばらで、
ほとんどの店も閉まっていて静かでした。
「死ぬまで日本を出ないと思っていた自分が
まさかこんな形で母国を捨てることになるなんて…」
などとぼんやり考えているうちに
搭乗時間になり、飛行機に乗り込みました。
座席に座りシートベルトを締めると、
鼓動が少し早くなりました。
「もう、戻れない」
そう思いながらターミナルを見つめていると、
飛行機が動き出しました。
離陸体制に入ると涙が止まらなくなりました。
機体の車輪が陸から離れた瞬間に
何だか心に穴が開いたような気持ちになって、
明かりが見えなくなるまで
何度も涙を拭きながらずっと陸を見つめていました。
ケアンズで飛行機を乗り換え、
シドニーに到着すると田村さんが迎えに来てくれていて、
日本語が話せたのでホッとしました。
空港からは、田村さんの事務所兼ご自宅へ。
そこから現地で生き抜くためのサバイバルスキルを
一週間徹底的に叩き込んでもらいました。
そして一週間後には、一人で交通機関を乗りこなせるようになり、
語学学校を現地で見学してから決めて入学し、
オーストラリア人とのシェア住居への引っ越しを
決めることができた自分がいました。
【三年間を振り返って】
「二度と帰らない」と腹を括って出国しましたが、
約3年が経ってから、諸事情により一時帰国しました。
その時に思ったのは、日本は物品が溢れているけど魂がない…
ということです。
とても便利だけど、すべてが予定調和でつまらないです。
世界は広くて、まだまだ知らないことの方が多いはず。
それなのに、日本にいると
まるですべてを知っているかのように錯覚してしまいます。
ふらりとどこかの民族の食料品店に入って、
何に使うか全く想像できないようなスパイスを眺めて
想像を膨らませたり、というようなことが全く起こりません。
また、日本は消費者としてのみ滞在するなら、
サービスの質が高く天国のような国です。
しかし、労働するとなるとサービス残業は当たり前、
女性であれば妊娠・出産を機に退職を余儀なくされることが多く、
接客業で働くと、「お客様は神様」と勘違いした疫病神が
クレームばかりつけてきます。
オーストラリアとニュージーランドでは、
サービスの質は低いですが、働く側としてはとても楽です。
残業はありませんからプライベートが充実しますし、
妊娠・出産しても仕事を続けられるのが当たり前です。
有給休暇も消化するのが当たり前。
有休をとって東南アジアなど物価が安い国に
一か月半など行けば、旅行中も何と黒字です。
放射能に怯える必要も、もうありません。
呼気被曝はありません。
食品からの内部被爆も、少しだけ気を付ければ大丈夫です。
日本食レストランに行かず、
東欧と日本からの輸入食品を避ければまずしません。
周りの空気を読むことも、
周りの意見に合わせることもしなくてよくなります。
違いを尊重する文化なので、
意見が異なっても「君はそうなんだね」と納得されて、
それでわだかまりもありません。
だから、世間体や体裁なんてものは存在しません。
3年前は日本に住むか、日本以外に住むかという
選択肢しか自分にはありませんでした。
でも、今では生き抜く力が付いたこともあり、
世界200ヵ国のうち日本が選択肢の一つにすぎなくなりました。
たとえ母国であっても、
苦しい思いをして住み続けなければならないことはないのです。
苦しいなら、住む国を変えてしまう…
観光ビザでもいいので、一か月ほど日本の外に出て深呼吸してみる。
それで見えてくるものが何かあるかもしれません。