アラビア語が少しわかるようになってきたらやってみたいことがあった。旧市街のバックギャモン場でアラブのオヤジたちとバックギャモンを打つこと。今日はその夢を叶えるため、旧市街に出陣した。
カフェ・ジャバルはオヤジ度が100%以上に濃縮されたようなオヤジによるオヤジのための喫茶店で、一日中オヤジたちがアラブコーヒーと水煙草をやりながら トランプとバックギャモンを興じている男塾の社だ。一足入るだけで、由緒ある世界遺産の旧市街から、煙と油と汗の混じるいわゆるオヤジ臭渦巻くブラック ホールにトリップし、「うっ」と軽く痺れが来る。淑女ならばその前を通っただけでじんましんが出てしまってもおかしくはない。さすがの僕も、中のトランプ場セクションはあまりに敷居が高く、そして逃げ場がないため、良く言えばオープンテラス、悪く言えば単にはみ出した場所でバックギャモンを打つ集団の端に腰かけた。
店の主人らしきオヤジがオーダーを取る。
「コーヒーをください」
「甘いのか何もなしか」
甘いのがデフォルトなことぐらいは知っている。ここで退けるか。
「甘いのを」
ここのオヤジたちの堪忍袋の緒の短さに合わせて、さっとアラブコーヒーが水と一緒に出てくる。コーヒーに口をつけてみる。こ、濃い。なんだこの濃さは。受験生でもこんな体に悪そうなものは飲まん。そしてなんなんだこの甘さは。どうやったらこれほどの量の砂糖がこんなちっぽけな量のお湯に溶けうるのか科学的な実証が必要だ。これで水が一緒に出てこなかったらいじめだろう。
目の前では首にコルセットを巻いたオヤジがとんでもないスピードで髭オヤジとバックギャモンを打っていた。それでいて水煙草はゆるりと吸っているように見えるから不思議だ。僕はコルセット対髭の戦いを何試合か見て、このゲームのルールを研究した。僕には勝敗がわからぬまま試合は終わり、髭は席を立った。僕はとりあえず今日はルールを覚えるところまではやりたいため、まだ半分も飲めていないコーヒーを持って他の対戦に顔を突っ込んだ。
今度は、片方が賽の投げ方に癖のあるショーン・コネリーのようなアラブオヤジで、もう片方は駒を打つ力が通常の5倍程度ある自己主張激しい黒髪のオヤジだ。黒髪は盤上で起こることをぶつぶつと実況してくれるため、僕にとっては都合がいい。対戦を僕を含め4人くらいが注視している。僕の対面には今にもポックリ逝きそうなガリガリのじいちゃんが杖に寄りかかって座っている。ちょっと話しかけてみる。
「これってアラビア語でシェーシュベーシュっていうんでしたよね」
「そうじゃがこいつらがやっておるのはシェーシュベーシュじゃなくマジュヌーナというやつじゃ」
そうだったのか!どうりで僕が小さい頃にやったことがある遊びとコマの進む向きが違うはずだ。バックギャモン=シェーシュベーシュではなく、バックギャモンの盤を使って色んなゲームができるのか。それにしてもマジュヌーナ。つまりクレイジーってことな。
「ダバシュ(おそらくダブル)が出るとコマの進め方を選べるのじゃ。バーンチを4度やってもよし・・・」
8割アラビア語、2割英語でじいちゃんは説明してくれるが、何か単語がおかしい。黒髪オヤジの念仏を聞いているうちにはっとした。すべての賽の目に名前がある。
「なんで3がセーで5がバーンチなんですか」
「トルコ語じゃ」
ガーン!そうか、中東の遊びだからといってアラビア語ってわけではないのか。とんだ先入観だった。そして賽の目の6と5(シェーシュとバーンチの韻を踏んだ言 い方)が重要なゲームがシェーシュ・ベーシュで、マジュヌーナは4と3ということらしい。ルールも段々わかってきたぞ。
と、そこで辺りが何だかうるさくなってきた。地元の不良高校生たちが近くで喧嘩を始めた。ピタッと賽ころが止まったと思ったら、ショーン・コネリーがガタッと席を立ち、30人近くいる不良集団に突進していった。最初喧嘩を止めるのかと思いきや、黄色のパーカーを着た野郎を引っ掴み、文字通り引きずり出した。おそらく息子だろう。
「てめえ!ああいう馬鹿な連中とつるむなと何度言ったらわかるんだこのどら息子めが!!」
ちょ、超怖え・・。アラビア語なんてわからなくても何言ってるかわかる。
「あ?てめえ口答えでもしやがんのか?親を誰だと思ってやがる!」
息子を公衆の面前でどつきまわし、あれよあれよという間に息子は説教部屋送りになった。隣に座っていたオヤジがショーン・コネリーの代役を務め、試合が再開される。
遺跡を巡るより、オヤジ喫茶に2時間いるだけでここの人たちの生活は何倍も理解できる。エルサレムっ子は江戸っ子と何ら変わりがない。オヤジ社会は血気盛んなガキを力で抑え込む機能を果たし、道徳と社会のルールを教える。オヤジが何か息子にさせてやりたいときは「うちのせがれをお願いしやす」ってな感じで頭を下げ、せがれが他人に迷惑をかけたときにはビシッと締めてケジメをつけさせる。そのケジメのことを、ここではイスラム教という。ただそれだけのこと。