=海外留学(短期プログラム)参加報告書=
氏名:山崎あかり
所属:千葉大学教育学部生涯教育課程
プログラム名:国際夏学校プログラム
留学期間:7/21~8/20
1.概要
台湾の国立大学の中では、国内2番目に高い教育水準を誇る成功大学で、夏のサマースクールプログラムに参加しました。2週間のセッションを2つ受け、合わせて1ヶ月間滞在しました。
成功大学が位置するのは台湾第4の都市と言われる台南です。グルメが有名で、日本統治時代は首都であり行政の中心でもありました。私が本や映画の世界からイメージしてきた日本の70年代を思わせる古く懐かしい街並、あちこちに黄色と赤の提灯がぶら下がっていて、ゴミゴミした商店街の路地を1本入ると、隙間なくお札で埋まる大樹やお寺が現れたり、食堂の中に神様が祀ってあったり、お寺の中にはちょっとした展示があったり、そして南国のねっとりした雰囲気、そんな台南がすぐに気に入りました。
成功大学はかつて訪れた大学の中で最も広大で歴史あるキャンパスでした。このプログラムに参加した学生は30人ほどで、セッションごとにメンバーが変わりますが、その内訳は、中国人が半数、東ヨーロッパの学生が10人、他に香港人、マカオ人、韓国人、日本人、タイ人、モンゴル人が少数含まれていました。
2.現地までの移動
成田空港から高雄空港まで3.5時間バニラエアで飛び、高雄空港から成功大学の学生寮までは2時間乗合タクシーを取りました。留学生1人につき1人成功大学の学生がバディとしてつくことになっており、プログラムが始まる前から連絡を取り合い、高雄空港から寮まではバディが連れて行ってくれることになっていました。
ところが、私の場合は不運にも最後までバディから連絡が来ず、成功大学の国際センターからも忙しさを理由に対応してもらえませんでした。高雄空港に予定通り到着したものの、数多くある学生寮のどこに行くべきなのか分からず、空港の人々と共通言語がなく、手元にユーロしか持っていなかったのですが両替所が見つからず、電話もインターネットもなく、やれやれどうやって別の市にある大学まで行くのか空港で冷静に絶望していました。投げやりにとりあえず乗り込んだ台南方面行きの乗合タクシーで、隣の席に座ったモスクワ帰りの台湾人おじいさんが、日本語をお話しできる方でした。成功大学の国際センターに電話して私の寮の住所を得てタクシーの運転手に伝えて下さり、途中で両替も手伝って下さって、私は本当に幸運でした。彼の息子さんも日本語を勉強していらっしゃるということで、滞在中に家で夕食でも、と連絡先をいただいたのになぜか連絡しなかったことをこれから一生悔やみます。寮に無事到着したものの、オートロックのドアだったため外で炎天下35度の中2時間待ちました。運良く寮の優しい学生さんが中に入れてくれ寮母さん?を呼んで来てくれたのですが、その後私のバディが来るまで部屋に入れず、さらに1時間待ちました。先の見えないトラブルがあっても、まあどうしようもないし(知らない地でどうにかするのが面倒)私に非はないしどの国でも誰か助けてくれるだろう、何とかなんべという根拠のない自信があり、トラブルにストレスを感じない自分の無頓着さに救われます。実際に見知らぬ外国人に手を貸してくれる心優しい人々に出会え、感謝しています。
3.授業
4つの授業を受講しました。ⅰcross-cultural communication,ⅱvisual culture studies,ⅲenvironmental issues in south Taiwan,ⅳheritage and sustainable developmentです。1コマ3時間、午前と午後それぞれ1コマずつ、1日に2種類の授業を受講します。留学生向けに開講された授業だったので、講義は全て英語で行われました。ヨーロッパで1年間生活した直後だったからか、基本的に教授中心の伝統的な講義の授業に逆カルチャーショックを受けました。以下に授業の詳細を書きたいと思います。
ⅰcross-cultural communication
異文化コミュニケーションについての授業です。台湾人女性と結婚し台南に20年近く暮らすアメリカ人の先生が、3時間1人で雑談し続ける講義です。たまにyoutubeで個人が作った台湾の観光のビデオや、国をステレオタイプで笑うパロディを見ました。笑っているのは先生だけでした。
分かっていましたが、初回は25人いた学生が最終的には5人にまで減りました。先生がお話しされる内容は異文化コミュニケーションに多少関連しているとは言え、主に私体験だけに基づくもので学術的なレベルではなかったこと、そしてそこから派生する中国への差別的なジョークが、毎時間マジョリティである中国人学生の反感を買い、授業が紛糾することもありました。第3者だからこそ私がハラハラし、先生の浅はかな発言に頭を抱え中国の友人達をなだめていました。固定観念に乗っ取った中国への感情的で個人的な意見はアカデミックの場では不適切だと、中国人学生に限らず私も感じましたが、それ以上に台湾と中国の政治的な問題について雑談のレベルで詩論を展開したことが問題だったようです。すぐに授業を去る学生と、先生に疑問点や自分達の意見をはっきり示すべきだとする学生、先生を白人至上主義として裏で中国語の差別的な言葉で罵る学生と、アメリカ人として理解しようとする学生に分かれ、中国人の中でも揉めていました。
私はアメリカや中国について知識は乏しいですが、多民族国家の中で人種や異文化についてオープンに時にジョークを交えて日常的に議論する機会が多いアメリカと、まだまだ閉鎖的であり対立を生まないためにネガティブな話題を避ける中国と、どちらが正しい/間違いではなくて、両者がお互いの背景の違いを想像できなかったことは残念に思いました。この時中国人学生のコミュニティに所属していた私にとっては、これが皮肉にも”異文化コミュニケーション”に必要な要素をいくつか掴む絶好の機会になりました。
ⅱvisual culture studies
イギリスで博士号を取った台湾人の教授による、視覚文化学の授業です。学生は3カ国出身の12人と少人数で、講義への出席と高雄市立美術館見学、エッセイ、論文読解とグループプレゼンテーション全てを2週間以内にこなして単位が出ます。私は単位を落としました。台湾の文化を学べたらと思い受講しましたが、実際の内容はイギリスの視覚文化が中心でした。
高雄市立美術館では、この授業の先生がキュレーションされた「上辺の表皮: Phil Sayers」展をクラスで回りました。Phil Sayersはアメリカの芸術家であり、自らをトランスジェンダーと公言し、性をテーマにした芸術作品を多く制作しています。2部に分かれたこの展覧会の前半の作品は、中世の伝統的な西洋絵画の女性の部分を切り取って、代わりに全く同じように着飾った、または裸体の作者の写真を合成したものです。後半は下着姿の作者と彼女の友人達の写真から成り立っています。前半の作品で、伝統的な”美しさ”にトランスジェンダーの自分を貼付けることで、セクシャルマイノリティの存在をアートを通して可視化することや、性別へのステレオタイプや伝統的な美の概念を問い直す試みはそれ自体に意味があると私は信じています。が、それ以上に後半の作品で、ジェンダーをアイデンティティの1つとして表現することがごく”普通”で自然であること、そして芸術家やトランスジェンダーとしてのPhil Sayersよりも、私達と同じように日常生活や友人がいる「人」としての彼女の姿が写真に優しく描かれていることに心動かされました。共産党によって情報を制限された中国で育った学生にとって、性を扱った作品に触れるのはこれが初めてだったそうで、多くの学生が不愉快を露わにしていました。ただ、最後まで「超気持ち悪い」「地獄絵」「グロテスクで醜い」「芸術は美しくあるべきだ」と繰り返しながらも、作品1つ1つを丁寧に見て、先生の解説を熱心に聞き、他国の学生と意見交換、議論し、彼らなりに作品を理解しようとする姿勢に驚かされました。
日本でも性を表現した作品が”卑猥”だとして美術館が非難されることがありましたが、そういう事件が起こる度に、例えば性の話はタブーとして議論がつくされず流されてしまう傾向があることに虚しさを覚えていました。
論文読解とグループプレゼンテーションは、中国人学生3人と共に、2013年にベルリンで開かれたノスタルジア映画祭について担当しました。ノスタルジアをテーマにしたショートフィルムを集めた映画祭だったので、発表の一環で実際に映画3本を授業中に流し、ノスタルジアとはどんな感情か、文化や言語によって定義は変わるのか議論しました。
ⅲenvironmental issues in south Taiwan
アメリカで修士号を取得した台湾人の先生による、台湾南部の環境問題について政治、法の視点から捉える授業です。講義とエッセイ3本、個人プレゼンテーションから成っていました。午前中に3時間先生のパワーポイントによる説明を聞くだけの、受け身で知識を溜めていく講義スタイルが合いませんでした。
毎回異なる環境問題のテーマを扱ったのですが、原発についてオーストリアから来ていた学生7人の原発への強い抵抗感に驚きました。世界で最も早く民主主義をもって原発廃止を実現した国であり、当時建設途中だった原子炉は現在文化施設として音楽や芸術のイベント会場に使われているそうです。311の際に福島で大きな原発事故があり、未だに復興がままならないにも関わらず、原発の再稼働に積極的な日本政府や国民3割が原発を支持する民意について細かく質問されました。
ⅳheritage and sustainable development
イギリスで博士号を取ったマレーシア人の教授による、遺産学の授業です。毎回の講義とディスカッションと発表、中間テスト、クリエイティブ産業についてグループプレゼンテーションとグループエッセイで単位が決まります。
遺産や文化の保存を通して、それが所属するコミュニティや社会をどのように持続可能に発展させていくか、というテーマは博物館学に繋がる所があり非常に興味深かったです。私の班は中国人、オランダ人と北京の南鑼鼓巷小路でのパフォーミングアートフェスティバルをクリエイティブ産業の例としてパワーポイントとエッセイを作成しました。メンバーのオランダ人が母国語だけでなく英語と中国語をネイティブのレベルで話せる学生で、かつプレゼンやエッセイもサクサク作り進めてくれたので良い勉強になりました。
4.フィールドトリップ
プログラムの一環で台湾南部への校外学習と文化体験にも参加しました。訪れた場所はⅰ高雄、ⅱ安平、ⅲ恒春鎮、ⅳ崑山科技大学、ⅴ台南の企業見学です。以下にその詳細を書きたいと思います。
ⅰ高雄
バスで2時間南に下り、台湾第2の都市である高雄へ向かいました。客家の伝統的な番茶を作ったり台湾の昔の遊びで遊び、授業の課題のために高雄市立現代美術館とビーチを訪れました。
ⅱ安平
バスで1時間北西に進み、台南の運河沿いの港町、安平に行きました。運河を船で下り安平古堡とその中にある文物陳列館、安平樹屋を訪れました。オランダ、日本、中国による統治時代の面影が残る、伝統的でノスタルジックな街並みが印象的でした。安平樹屋にも成功大学にもボンボン生えているブロッコリーのような巨大な木、榕樹の緑色と安定感はラピュタを思い出します…。
成功大学のキャンパス内に複数生える榕樹は、かつて昭和天皇が植林したそうで、成功大学の楽章にもなっています。私が滞在している期間に遭遇した巨大台風によって、この木は真ん中から3つに裂けてしまいました。
昼食のためにサバ博物館を訪れました。英語でmilk fishを食べに行く、牛乳の味のする魚と説明された時はどんな深海魚かと身構えました。コース10品全てサバが入っており、デザートのアイスキャンディまでがサバ入りでした。1つの大皿から大人数で箸で摘む台湾/中国の食べ方が家族で食卓を囲んでいるようで良いなと感じます。帰りに安平開台天后宮にも寄ったのですが、中に入るとフィンランドのロシア正教会と構成が全く同じで立ち尽くしました。
ⅲ恒春鎮
バスで3時間南に下り、台湾の最南端恒春鎮を訪れました。3つの海が交わる場所で崖から一望した海の広大さは圧巻でした。この日はちょうど1ヶ月間の中元節の初日で、地獄の門が開きこの世に帰って来る鬼を弔うダンスと音楽を海の前で見ました。
台湾映画cape no.7のモデルとなった場所です。映画の最後で、浜辺で台湾人歌手の范逸臣と日本人歌手の中孝介がそれぞれの母国語で共に「野バラ」の歌を歌うシーンがあります。野バラは日本統治時代に台湾の小学校の唱歌であり、その後中国国民党によって日本文化は台湾から排除されましたが、野バラだけはドイツのシューベルト作曲ということでそのまま歌われ続けたといいます。私は個人的に日本政府が台湾で行った同化教育は植民地政策として否定的な立場ですが、台湾を思う時にいつもこの青く光る海と野バラを思い出します。
海の神様の祀られている神社でおみくじを引くと、「この先の人生は自然と縁によって導かれる、過去に意味はない前を歩け、努力や苦労に関わらずなるようにしかならない…」私を象徴するような結果を引き当てました。
ⅳ崑山科技大学
同じ市内にある崑山科技大学で、班に別れて台湾料理を作る体験学習が毎セッションありました。初回は私がよく考えずに手元にあった唐辛子をみじん切りにして全て鍋に入れてしまったので、私の班だけ激辛の米麺ができました反省しています。
帰りに海山神社に寄りました。台湾の宗教施設は天井の装飾と色遣いが見事です。若いお洒落な男の子達が神社でヒップホップを踊っている光景は新鮮でした。
初めて墨絵体験もしました。中国人は子供の頃の習い事として墨絵の経験のある学生が多く、ダイナミックに力強く筆を重ねて風景画を描いていく一方、私やヨーロッパの学生はふざけたオリジナルのキャラクターを作り、その酷さに笑い合って自由に墨で遊びました。
ⅴ台南市内企業見学
漢方会社と台湾ビール会社、台南科学公園、国立科学研究所を見学しました。理系の研究施設では、敷地内にパブリックアートが溢れ考古学の展示もあり、代表者の方が「文化なくして科学は成り立たない」とお話ししていたことがとても印象に残っています。
日本が自らをアジア随一の先進国だと自負していた時代があったのだとしたら、それはせいぜい高度経済成長期でとっくに終わったのだと東、南アジアの国々を訪れる度に感じます。
5.寮生活
1カ月間成功大学の寮に台湾人のルームメイトと住んでいました。寮自体は綺麗で12階建てビルの8階の部屋だったにも関わらず、毎日スーパーゴキブリが3匹ずつ出て殺虫剤やトラップが全く効かず、洗剤を手に奮闘の日々でした。
寮にキッチンがなかったので毎食外食でした。食に気を遣ったのは最初だけで、友人に連れられてよく地元の小汚い食堂で食事していました。1食200円でどこで何を食べても美味しく、ゲテモノとして知られる臭豆腐も百年蛋も米血糕(アヒルの血をかけたご飯)も鴨血(鴨の血ゼリー)も美味しく頂きました。朝ご飯は早朝からあちこちに出る屋台で肉まんと甘い豆乳を買い、昼食は医学部キャンパスの食堂でビュッフェ、夜ご飯は夜市で済ませることが多かったです。
6.自由時間
通常授業が17時に終わり、放課後は夜ご飯のために皆でバイクの2人乗りやタクシーで夜市に行ったり、台湾ビールを片手に台湾映画を観たりしていました。
夜23時に香港人グループが夜食のために屋台へ連れ出してくれたり、私に中国語で話しかけてきたドイツ人とアメリカ人と意気投合しよくご飯を食べに出かけたりしました。
大学近くにある文学博物館もしばしば訪れました。
その時の特別展であった「知られざる幸福」展は、日本統治時代を生きた台湾人作家、龍瑛宗についての展覧会でした。20世紀当時の強制的な日本語教育によって、彼の詩と小説作品の大半を日本語で書き何度も受賞もしています。この時代にたくさん彼のような作家が生まれたそうですが、政治の関係で今は台湾と日本どちらでも全く知られていない、と博物館のボランティアのおじいさんが呟くように話していました。私達は彼らの作品を読む幸福を知らないのかもしれないとふと思いました。龍瑛宗は彼の著書「知られざる幸福」の中で、忍耐強い自立した女性が、規定の幸福の概念に捕らわれない生命の幸福を探求する姿を描いています。
土日は25年ぶりの巨大台風が襲来しない限り、授業のグループ課題に追われたり旅行したりしました。
香港、韓国人とバスで2時間北へ進み、台湾第3の都市である台中に日帰りで訪れました。台中現代美術館と科学生物博物館に行くことが目的でした。人の多い美術館が苦手なのですが、特別展の草間彌生展が大人気で混雑していたので、誰もいない常設展をブラブラしました。科学生物博物館の方は予期せず巨大で多様なテーマで充実した展示がありましたが、見終わらることなく帰宅の時間になりました。
台湾、タイ、モンゴルの友人達とフィールドトリップとは別に再び高雄を訪れました。啓明堂と蓮池に立つ龍虎塔は、巨大な龍から入り塔を通って虎から出ると悪行が清められるそうです。装飾が有名な高雄の駅も訪れました。
高雄の現代アートも見に行きました。芸術に対する人々の高い関心に驚きました。
この日は8月15日、日本では終戦記念日でしたが、高雄の広場で89歳の台湾人のおばあさんに流暢な日本語で話しかけられました。昭和20年、18歳まで日本統治時代下の教育を受けた、同化政策のため台湾語は禁止であった、「この歌を学校の式典でいつも歌ったの。」と蛍の光のメロディで「台湾も朝鮮も樺太まで全ては日本の現人神のもの…」と歌われ息が止まりました。「日本がとても好きなのよ、2回訪れた、だから日本語も忘れない。」とおばあちゃん。終戦で50年間に及ぶ日本統治時代が終わり、皆帰国する日本人を涙しながら見送った、その後中国の悪政に苦しんだ、という太平洋戦争時代の台湾の歴史を彼女の視点からざっとお話しして下さいました。一緒にいた日本人が「何を言っているのかよく分からなかったけど台湾人はやっぱり日本が好きらしくて嬉しいね!」と隣で言うのを聞いて白目を剥きました。台湾が親日国家と言われる理由は、”クールジャパン”や日本のサブカルチャー、電化製品の質の高さや日本人の礼儀正しさなどではなくて、始まりは、本当は日本による抑圧への適応と抑圧者への憧れ意識だったのではないでしょうか。
歴史が残る観光地や博物館、現代の台湾映画でも日本統治時代の要素は多く登場しています。台湾の現代史に欠かせない1947年の228事件では、日本統治時代が終わった直後、当時まだ日本国籍を有していた本省人(台湾人)と日本の武装解除のために移り住んできた外省人(在台中国人)との大規模な抗争、中国政府の武力による鎮圧の結果2万8千人の台湾人が拷問の末殺害されたと言われています。政治で日本と中国の板挟みとなった台湾と日本の歴史、政治、外交問題について台湾人と議論する際、私はどこに立つべきなのか悩みました。恥ずかしいですが、台湾を訪れるまで第2次世界大戦時に日本が台湾を統治していたことさえ知りませんでした。台湾人と教育の話になると、歴史の教科書の現代史の内容や濃度の違いに溜め息をついていました。日本と東アジアの歴史問題に関わらず、私達は本当は義務教育で学び、批判的に考えて議論してくるべきだったのに、情報にアクセスさえできなかったことが多いことに改めて気付かされます。「できなかった」のではなく本当は敢えて「アクセスさせなかった」抑圧者が存在するかもしれません。学ぶことがまだまだたくさんあると学びました。
放課後カフェで言語交換と言って、台湾人が私に1対1で北京語を教えてくれる代わりに、私は彼に日本語を教えていました。英語を共通言語にし、中国語/日本語の言語レベルは初級だったのですが、最初の回から私は「続く」「読む」の漢字がもう書けなくなっていてカフェで本当に泣いたりしました、冗談みたいです。20年以上世界を定義してきた母国語を失っていくことは恐ろしく、アイデンティティが揺らぎました。
台湾に滞在していて初対面の人々から「日本人の英語じゃない(この後日本英語がいかに酷いか語られる)」「日本人にしては目が大きすぎる」「純日本人ではないでしょう?」と言われるのに序盤からうんざりしました。東アジアでは地理と歴史の関係で人々が日本をある程度よく知っています。自国について随時説明しなくて済むのは楽な一方で、ステレオタイプの"日本人女性らしく"あることを求められて疲れることもありました。パスポートを燃やす時代を死ぬ前に見られると良いなと思います。
前半のセッションでは日本からは私1人だったのですが、中国人留学生達が不器用な英語で話しかけて輪に入れてくれていました。私は海外で滞在始めはいつも孤立してしまうのですが、その時に私を放っておかないでいてくれるのは毎回中国人のような気がします。誤解を恐れずに個人的に感じる中国の人々のステレオタイプを書くと、中国の友人達は初対面から心理的な距離感がとても近く、親しみやすく世話好き、言葉は足りなくても彼らの言動から相手を尊重していることがよく伝わってきます。常に腕を組んだり手を繋いだり、食べ物飲み物は必ずシェア、考えや感情はその場できちんと言葉にして伝えようとする、正直で真っ直ぐな彼らに急に会いたくなります。緑茶オレ?に小豆と栗、タロイモ、寒天を入れた最高の飲み物をよくどこかで買ってきてくれました。彼らから別れ際に「アカリはさらに、もっと強くあって。人と違ってい続けることは超クール」だと言われたので、全ての社会不適合者と負け犬、真の変人に私はこれから同じことを言っていきたいと思います。
7.旅行
成功大学での1ヶ月間の留学を終えた後、1週間だけ雲林、台中、台北、九份と北台湾を観光して帰りました。あちこちの街に住む台湾人の友人達に会うことが目的でした。
最初は台南から電車で北へ1時間、中央台湾にある雲林へ向かいました。オランダ時代の建築物や教会が残っていました。
1km先にちょっと買い物に行ってくると自転車を借りたまま6時間消息不明、友人の家族総出で探し出した結果25km先40度炎天下で路頭に迷っていた私の方向音痴もここまで来ると罪だと反省しました。
雲林から電車で1.5時間進み、2度目の台中を訪れました。英語教師のカナダ人のフラットに泊まり、友人2人と2年ぶりの再会を果たしました。台湾一美しい大学と言われる東海大学を訪れ、久しぶりにパスタを食べて三越で買い物し、お茶をして近況報告をしました。台中駅と市役所は日本統治時代のものがそのまま使われていました。
台中から新幹線で1時間北へ進み、首都の台北へ向かいました。なぜかキャンパス内にいる水牛と仲良し、現代と人間を嫌う、「台湾母仔」と巨大十字架のタトゥー、自然の中で仙人暮らしのヒッピーが母校の国立台北芸術大学に連れて行ってくれました。山の上に広がる巨大なキャンパスが見事でした。現代の交通テクノロジーは彼の思想に反するということで、登山の後淡水を川沿いに10km歩きました。
自由とは、憎悪や抑圧や暴力が存在しない状態だと語っていて深く頷きました。
また、台湾芸術大学の友人と1年ぶりに再会し、台北国際芸術村と台北現代美術館のインタラクティブアートの企画展「香港現代芸術展;アートという名の下で」に行きました。小規模でシンプルな展示ですが、今まで見た企画展の中でベスト3位に入る好きな展示で友人と興奮し、半日潰しました。香港と中国の政治問題を批判的に扱う芸術作品の展示を通して、似た政治状況である台湾と中国の関係にも物申していると捉えました。
別の日には、2年前に千葉に観光に来ていた友人7人と再会し、小籠包とタピオカミルクティーを御馳走してくれ、行天宮を訪れ足り、夕飯を共にしたりしました。皆さん変わらず温かく知的で元気な姿を見られて安心しました。ABC(America Born Chinese)=アメリカ生まれ中国人のコミュニティの持ち寄りパーティーに飛び込み参加したり、アメリカ留学を終えた台湾人と寧夏夜市に行ったり、クラブに行ったりしました。台北に滞在した5日間はずっと台湾人の家に泊めてもらっていたのですが、リビングに泊まっていたアルゼンチン人も入れて朝4時まで台湾の政治の議論をしたり、北欧の留学経験があり今は多国籍企業で働く台湾人の友人とタピオカミルクティーの原点となった春水党で夕飯を食べたりと、常に友人達に囲まれ最高の観光をしました。こうして書いてみると改めて世の中色々なバックグラウンドを持つ人々がいます…北京語と英語、日本語が混ざり混乱しました。
台北から1時間、運転の荒いバスで山道を駆け上がり、成功大学の寮のフラットメイトが九份に連れて行ってくれました。上で少し触れた228事件をテーマにした台湾映画city of sadnessを観て、舞台となったこの街を訪れてみたいとずっと思っていました。生きている限り全てのことは可能です。
さらにバスで山を登り金博物館を訪れました。もともと日本統治時代に開拓された金鉱なので日本建築が残っています。当時の日本政府がシンガポールからイギリス人捕虜1135人を"金稼ぎ”と称して連れて来て、劣悪な環境の中で働かせ拷問し、大半を殺した歴史を忘れないための博物館でした。
博物館から見える社会や文化があると信じているので、海外では時間が許す限り博物館を訪れるようにしています。台湾の博物館は政治から離れて自由で民主的で社会問題に対してアプローチがあり、毎回新鮮な驚きがありました。学校の教科書を含めて台湾メディアが中国共産党に強く影響され、情報が制限されていることに対する強い不満と不信感を台湾の多くの人々、特に若い世代が抱いていることを、私も肌で感じていました。ところが、博物館では議論を醸すような政治問題や性を扱うアート、日本統治時代の文学作品、日本政府の爪痕に関する資料を集め保存し、積極的に公開していてその度に感動しました。博物館の本来の在り方を見た気がしました。台湾の友人達はこれらセンシティブなトピックの議論になるとよく、情報は博物館やインターネットから客観的でソースのあるものを複数集めて、自分の頭で考え、オープンに議論するようにしている、と話していました。そうでなければ洗脳され中国共産党の思うつぼだ、と。昨年インターネットで知った台湾のひまわり学生運動での学生のひたむきさと逞しさを目前にして彼らが眩しく見えました。推測しないで直接尋ねること、優しくあり、真実を話すこと、高潔で誠実であること、相手に気持ちを言葉で伝えることが、問題の本質を捉え、対人関係の風通しをどんなに良くするか、教えてもらいました。人生における2つの良いことは思想の自由と行動の自由である、という結論に達しました。
絶望せず、元気に4年生として後期から復学します。留学中のサポートを本当にありがとうございました。