校外学習活動報告
1.パリ
現地時刻の午後5時頃にパリ市内へ到着。すぐにホテルに移動して、荷物を解いたのち、軽くミーティングをしてから、各自で近くのスーパーまで歩いて買い物をして、部屋でパスタを作って一日目は終了。長時間のフライトだったため、みなぐったりとしていて、はやめに就寝。私自身は3度目のパリでしたが、やはり街並みには趣があり、それでいて現代的な忙しなさを併せ持つ、誰もが憧れる街が、今日もそこにありました。
二日目は朝から早速行動に移りました。まずはパリ第十大学を訪問。第十大学はナンテールという町で、パリ中心部からは少し外れます。ここの興味深い点としては、学校の敷地と再開発地域、そして労働者階級の居住区がそれぞれ隣合っていることが挙げられます。キャンパスから公道に出ると、そこには人気のない土地が広がります。
数年前までには、ここにも多くの人々が住んでいたそうです。しかし、地域の再開発に伴い、行政が彼らを立ち退かせるために土地を無闇に掘り返したり、荷物を強制撤去したりしたため、ここで何とか暮らしていた人々も退却を余儀なくされたとのこと。現在はかつての居住者たちの残したゴミが多くそのままの状態で放置され、古びた建物や、キャンピングカーなどがひっそりと存在しています。ここは普段は立ち入り禁止区域に指定されていますが、特別に案内していただきました。フランスに到着して早々、貧困層の暮らしを突然つきつけられ、わたしたちの渡航の目的を改めて心に刻む他ありませんでした。
しかしこの地区から数分歩くと、みるみる街の外観が変わっていきます。より新しく洗練された街。「再開発」の本当に意味するところを知ってしまったような気分でした。
街のこちら側では中産階級の誘致が進み、一定の成功を収めているようでした。新しく舗装された道路に沿って様々なお店が並び、ビルも近代的なものが多く、遠くのほうではいまだに建築工事の終わっていない建物も見えました。ここを案内してくれた方によれば、通りの名一つを決めるにしても、県と市の対立や、人々の政治的思想の差異から議論になるそう。永遠に完成しない都市、東京は、ただ常に新しくありたい、その一心で、影になんのイデオロギーも感じられません。しかしフランスでは、人々が自らの政治的思想をしかと持ち、パリの中心部から離れた小さな町でも、行政と積極的に関わり合いながら、日々戦っていました。フランス的な国民と日本的な国民に優劣をつけることは正しくありませんが、その政治的な信念の強さにはただ驚かされました。
パリ滞在中には、国立移民博物館にも訪れました。移民の歴史を専門として扱う博物館です。
「移民」とは(フランスでの移民法上の定義によると)、フランス国外で生まれ、かつ生まれた時の国籍がフランスではなく、フランスに住む人のことを指します。1999年の国勢調査によるとフランスの移民の数はおよそ431万人で、フランスの人口の7.4%にもあたり、そのうちの156万人はフランス国籍を取得しているといわれます。
パリに旅行して観光地以外の場所に足を伸ばせば、インド料理店が軒を連ねる界隈や、アフリカ系の人向けの理容店がずらりと並ぶ通り、トルコ系の人が店先でケバブを焼く風景に遭遇することでしょう。また、ことさら異国情緒あふれる例を引き合いに出さずとも、フランスに暮らせば、かかりつけの医者が実はポルトガル出身だったとか、友人の両親がドイツ出身だとか、移民を身近に感じる例にはことかきません。
フランスは19世紀からコンスタントに移民を受け入れているヨーロッパ随一の移民大国。移民たちはやがてフランスで子どもを産み、育て、次世代を形成していきます。また、彼らがもたらす異国の文化は、フランスに文化的多様性をつくり出してきました。こうして、さまざまな歴史と文化を背負った人々が集まって「フランス」という国を形成しています。フランスの歴史とは、移民の歴史でもあるのです。
移民歴史館は、こうしたフランスの歴史的、文化的あるいは社会的背景を踏まえ、移民の歴史に関わるさまざま資料を収集、保存、公開することを目的に誕生しました。折しも、フランスでは2007年に「移民・国家アイデンティティー省」が創設されたばかり。パリ郊外で「移民系」の若者が暴動を起こしたニュースも記憶に新しく、移民の引き起こす問題ばかりに目がいくなかで、移民の歴史がフランスの歴史の一部であることを認め、調査・研究・保存する意味があるのだと声をあげた国立の博物館の存在は、それ自体で非常に大きな意味を持つといえるでしょう
http://www.mmm-ginza.org/museum/serialize/backnumbe... より引用
移民労働者の滞在VISAや、手続きに必要な様々な書類がそのまま大切に保管されており、非常に興味深い展示でした。しかし、あまりにもきちんと整理された空間は、移民の歴史を物語るのに適切なのだろうかとも感じました。身一つで海を渡った人々の熱気や、後に引けない恐怖、不安、狂気。そのような感情が一切を絶たれ、彼らの血や涙を感じられない展示に、漠然と不満を感じもしました。この博物館は国によって建てられてはいますが、セレモニーも行われないまま静かに開館されたと言います。ここでも、一般市民の関わる日常生活に政治的な力のせめぎ合いを感じました。
2.エクサンプロヴァンス・マルセイユ
基本的に日中はマルセイユで活動しますが、治安上の問題で、バスで30分の距離にある隣のエクスに宿を取りました。先生曰く、マルセイユとエクスは切っても切り離せない関係にあり、どちらがどうと判断することは間違い。2つで1つ、まとめて考えなければならない。エクスは、市民の平均所得も高い、ブルジョワの街。老後住みたい都市として有名。対照的にマルセイユは労働者階級を中心とした街です。また、マルセイユ・エスペランスの方の話によると、マルセイユでは共産主義政党の勢力が強いそう。共産党はあえて貧困層の居住区を街の中心部に置き、貧困層の流出を防ぐことで、自分たちの支持率を保っているとのこと。そのためには治安の悪化や、経済の弱体化は致し方ないこと、という認識が一般的。しかし、再開発も同時に進めており、古い建物へ、積極的に様々なアーティストを誘致しています。そのためマルセイユにはアトリエや、芸術分野の活動家が多く、それが街並みに現れています。基本的にアーティストたちは貧困を否定しないため、この政策の効果は良好です。
2.1マルセイユ
丘の上の教会、ノートルダム・ド・ラガルド寺院。教会の頂点から街全体を見下ろす聖母マリアと、イエス・キリストの金色の像はマルセイユの象徴。小高い山の上にあるため、かなりの距離からでもそのきらめきを確認することができます。古くから旅人はこの像が視界に入れば、ふるさとが近い、と感じていたと言います。教会までは、山のふもとにある市街地からひたすら石畳の坂や階段が続き、辿り着く頃には冬だとは思えないほど体が火照ります。地元の琴平を思い出しました。(比じゃない)教会からの見晴らしは最高。何時間でも眺めていられそうです。
マルセイユで訪れた移民街は街の中心部から歩いていける距離です。基本的には、大きな道路に面した市街地の裏路地に形成される傾向があります。移民街に近づいていくにつれ、アラブ系の方々を多く見るようになり、到着してみると、ここは本当にフランスなのかと思うほど、異国情緒漂う空間がありました。アジア系の学生が団体で街を訪れるので、確実に目立ちます。基本的に、欧米でアジア系十中八九 Chinois (=中国人)だと認識されます。東アジアの総人口に占める中国人の割合を考えれば、その判断は妥当。フランス滞在中、幾度となく「你好」と声をかけられました。ムスリムの多く居住する移民街でも同様でした。わたしは中国人だと思われても、悪い気はしないので、移民街でも、おじちゃんにノリノリで「你好啊」と返すと、「おれの中国語通じたぞおい?!」と言いたげな表情をされたのが印象的でした。わたしもできないフランス語をむやみに喋りたがる人間であるため、その後の会話は続けられないくせに、’Bonjour’ ‘Excuse moi’ 等どしどし使っていましたので、なんだ、みんな同じなのかと、彼らの「你好」を理解しました。相手の母国語(推測の域を越えないにしても)を話してあげようとする心はいつだって暖かい。それからは、中国語で話しかけられるたびに中国語で返すようになりました。それだけで喜んでもらえるならお安い御用だ。中国人にだって韓国人にだってなろう。移民街では、その中心にあった小さなショッピングモールを訪れ、アラブの世界を疑似体験しました。BGMにアラブの音楽が流れ、店内はフランス語と混じってアラビア語が飛びかい、コーランやヒジャブなどが多数販売されていました。喉が渇いたのでそこでジュースを買い、アラビア語科の先輩に、アラビア語の「ありがとう」を教えてもらって、お釣りをもらうときに「シュクラン」言うと、途端にお店のおじちゃんの顔に笑顔が満ちて、とても幸せな気分になりました。言語はツールでしかあり得ませんが、その力はやはり計り知れない。かくして、わたしの人生初のアラビア語会話は大いに成功しました。この体験を機に、わたしの中でムスリムの印象が一気に明るくなりました。ちなみに、挨拶は「アッサラームアライクム」が有名ですが、これは宗教色が強いため、単に挨拶をしたいだけの場合は「マハラバ」のほうが適切だそうです。わたしもこちらを多用しました。(必要以上に)
広々とした道と、そこに面する海。「マルセイユには海があり、太陽があるから」と、マルセイユの人々は皆口を揃えて称えます。その所以を理解した気がしました。中心部に貧困層が多く居住しようとも、そこに経済的な成功がなくとも、街からは誇りと活気を感じられます。私自身も港町で育ったため、初めて訪れた都市ではありましたが、船着き場には、不思議と親近感を抱き、とても心が落ち着きました。
2.2エクサンプロヴァンス
エクス政治学院大学(Institut d'Etudes Politiques d'Aix-en-Provence)にてセミナー受講を受講しました。ヨーロッパにおけるムスリム移民問題の専門家である、フランク・フレゴジ教授から、この問題に関してレクチャーをしていただきました。
「あなたはムスリムをどう定義する。あなたにとってムスリムとは何だ。わたしだってムスリムかもしれない。これはジョークではなく、議論だ、社会科学だ。フランス人にとって、日本人にとって、ムスリムとは何だ。ムスリムから何を連想する?髭か?ターバンか?それだけでは、ムスリムと識別することはできない。それだけならわたしだってムスリムかもしれない。あなたが識別できるムスリムたちだけがムスリムではない。労働者、女性、子供、ホモセクシュアル、ヘテロセクシュアル、様々な人々がいる。そんな彼らをなぜただ「ムスリム」としてしか定義しない。あなたはどうムスリムである人とそうでない人を識別するか。その点を指摘すると大抵「知ってるよ、彼らはみんな一人一人顔つきが違うし、異なる国の出身者で ...」という議論が起こる。しかしフランスに居住するムスリムの多くはフランス生まれだ。論点は、中東を始めとする外国において、そしてフランス国内において、何が間違っているのかだ。これは社会的な問題、社会的な論争によるものだ。我々はただ宗教的な側面からこの問題を考えることをやめなければならない。フランス人が「ムスリム」と言えば、「彼らは外から来た」と考える。わたしたちはもっとプラグマティックにならなければならない。」
人々は迅速な回答を求めるが、社会科学は時間を要する。良い問いを立てるために。問いの立て方こそ重要なのであり、答えはその後に得るものである。