高校時代にドイツに留学したとき、僕は同じプログラムでイスラエルから留学に来ていたリリィと知り合った。その後約10年の時を経て彼女と再会したときのことを書きたい。
僕が人道支援という道を職業に選び、エルサレムに駐在していることは彼女に伝えていた。すでに彼女はカナダに生活の基盤を移していたから、こっちで会えるとは思っていなかった。ところが、こんなメッセージが突然届いたのだ。
「イスラエルに帰省することにしたんだ。会いたいから、電話番号教えて」
びっくりしたが、メールを返信し、2日後に港町ハイファで落ち合うことにした。
その時20代半ばだった僕にとって、ほぼ10年ぶりに人と再会するなんてことは初めてだった。出会った時は2人ともただの高校生だったけれど、この長い間に、彼女は軍隊に入り、僕は大学に入学し、彼女は退役後カナダに留学し、僕は大学を出た後オランダに留学し、そして、巡り巡ってハイファでそれぞれの人生がまた交差する。退役軍人と人道支援者。そんな肩書を捨て、僕は彼女と話すためだけにハイファに向かった。高校生同士だから友達になれた、今は友達ではいられないなんて世界は、絶対にまっぴらだと思った。
リリィは、僕の記憶にあるリリィだった。
リリィは兵役の後6年間カナダの大学に行ったまま、この時まで一度もイスラエルに帰ってこなかった。今回も2週間しかここにいない。
「この6年でこの国、何か変わった?」と、リリィに聞いてみた。
「そうね、道路がきれいに整備されたと思ったかな。あと、人が前よりも優しくなった」
「これでも?!」
「うん、前はもっと人当たり悪い人いっぱいいたと思うな」
リリィの人懐っこい笑顔は変わっていない。
何時間も話しているうちに日が沈んだ。10年も会っていないから、自己紹介をほぼ最初からしなきゃいけなかった。こんなに近くに感じるのに、お互いが経験してきたことを知らないのは、変な感じだ。
「これからおばさんの家に行って髪を整えたり荷物まとめたりしなきゃいけないんだけど、どうする?ここで待つ?それともおばさんの家に一緒に来る?」
「うーん、ここにいてもしょうがないから一緒に行っていい?」
「OK、じゃ、そうしよう」
おばさんは車で僕たちを迎えに来て、家まで連れて行ってくれた。一生懸命英語で話そうとしてくれるが、たまにリリィの助けが必要だ。
リリィのおばさんの家はロシア系イスラエル人の4人家族で、夫と20歳の娘と16歳の息子、あと犬と猫が一匹ずついる。おばさんは着くなり「何か飲み物はいる?何か食べたい?」と、台所で何かを作り始めた。
「ロシアのおばさんはみんなお客さんを餌付けるのがうまいの」とリリィはにっこりしている。
おばさん、息子、リリィ、僕で食卓を囲んだ。トマトの漬物など、ロシアの家庭料理がいろいろ出てきた。
食事を終えると、リリィは「これからこの癖っ毛をストレートにするアイロンをかけるけど、興味ある?」と僕を誘う。少なくともロシア語のテレビよりは全然興味深いから、彼女がイスラエル滞在の間居候してるおばさんの娘の部屋について行った。
「私の従妹、まだ兵役についてるの。来年の8月までだって」
「どんな仕事してるの?」
「この近くにある軍営病院で事務員をしてる。何人かの部下もいるのよ。あ、このアイロン1時間くらいは少なくともかかるから覚悟しててね」
「いいよ、時間かけて。軍隊といえば軍事検問所の兵士しか面と向かっては会わないからなぁ」
「彼らはおそらく月に2回くらいしか家に帰ってこないんじゃないかしら。従妹は職場も近いし毎日シフトを終えたら帰ってこれるからいい方かもね。彼女は軍隊自体嫌いみたいだけど」
リリィが綺麗な金色の髪をまっすぐに馴らすのを見ながら、僕はベッドで丸くなっている猫と戯れ、色んなことを話した。そうこうしているうちに、軍服を着た娘さんが帰ってきた。僕にさしたる興味も示さず、おもむろに軍服を脱ぎ始め、下着になったかと思えばクロゼットの前でお出かけ用の服を選び始めた。目のやり場のない僕の前で3着ほど着る・脱ぐを繰り返した後、僕個人的にはいちばんいけてないと思ったミッキーマウスのパーカーに落ち着いたらしい。リリィとは何やらヘブライ語でやりとりがあった。
「これから明日のパーティーで着る服を買いに行くんだってさ」
おばさんが部屋に入ってきた。
「娘は今入隊して病院で働いているの。戦闘員のような仕事じゃないから安心はしているけど・・」
娘を見る目は心配そうだ。おばさん自身が看護師だから、まだどんな仕事か想像できるだけましなようだ。
イスラエルの家庭って、こんなもんなんだろうと思った。母親は自分の子どもが背負わされる兵役という宿命を不安な面持ちで見つめ、早く終わってくれればいいと願い、子どもの方は下される命令に色んなことを考えながらもやり過ごし、おしゃれも、恋も、精一杯楽しむために努力して、自分の人生をうまく設計しようともがいている。「しょうがないじゃん」、と若い兵士の背中は言っていた。選ぶ選ばないにかかわらず、彼女のハタチの大半は軍服を着せられたまま過ぎていく。僕が検問所で「人を簡単に殺せるような眼」を初めて見たとき、その兵士は彼女と同じような若い女の子だった。誰も好きで戦っているわけじゃない。そして、誰もが自分が戦っているのは、他の誰かのせいだと思ってる。パレスチナ人のせい、政府のせい、宗教のせい、歴史のせい・・。本当は戦いたくないのに、誰だよ私の人生をこんなにしたのは。多くの人はそう思ってる。国籍も宗教も人種も、出生証明書のようなものだ。生まれたときに決められていて、多くの場合、どうすることもできない。その生まれ持ったもののなかで足掻くしかない。戦争の地に生まれたら、戦うしかない。個人は国家規模の権力に対してあまりにも非力だ。そうして多くの個人がこの戦争に加担し、状況は一向に改善しない。リリィですら、その一人であったくらいなのだから。
「あと5つくらい、嫌なところを変えてくれたら、イスラエルもいいところだと思うんだけどね。自分の家だって思うのはイスラエルなんだけどさ、でも今のままだったらカナダの方がやっぱり住みやすいと思う」
「そっか・・。日本にいたらその気持ち、わからなかったかもしれないけど、今は少しわかるような気がする」
駅でリリィと別れた。彼女がいなかったら、この紛争の中で僕は平静を保てなかった。彼女が心の中にいたからこそ、どれだけ兵士の悪行を見ても、家族を殺された遺族の話を聞いても、爆発しそうな怒りと悲しみを抑えこめられた。紛争が日常にある中で増幅していく憎悪という感情は、彼女という友人の存在なしには消化できなかった。
リリィは別に何もしてないと言うかもしれないけど、僕は礼をしたい。